「贋作・罪と罰」感想
まずお詫び。すみません私ドストエフスキーの「罪と罰」読んでません。血気盛んな文学少女であった10代の頃はそれこそリストをつくって岩波文庫の世界名作を読みつぶしていったのものだ。ヘッセの「車輪の下」やジッドの「田園交響楽」には心惹かれるものがあったよ。少年愛にロリにと萌え要素満載だしね!マンの「魔の山」やトルストイの「アンナ・カレーニナ」はやや暗いけど骨太の物語に圧倒されて他の作品もどんどん読んだ。ところがところがなぜかドストエフスキーの「白痴」でつまずいた。ならばと思ってトライした「悪霊」も挫折。なんか波長が合わないんですな。大仰なミステリって感じで(すみません理解は猫のように浅いです)。てなわけでそれ以来ドストエフスキーは鬼門。そのかわりに読んだのが漫画版。大島弓子の「ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ」あーんど御大手塚治虫の「罪と罰」。なんか頭悪いっすね。でもいいですよ大島弓子版罪と罰。スヴィドリガイロフがデビッド・ボウイみたいな退廃的な耽美美形でね~。
というわけで影響はされなかったが物語は知ってる罪と罰。2006年観劇第一作目は。恒例年末年始興行野田地図の「贋作・罪と罰」なのだった。
びっくりしたよ。物語はほぼまんま。ぜんぜん捻ってないストレートプレイ。野田さんのお芝居って言葉遊びの妙だなあなんて思ってたけどこんな直球オシバイもありなんだあって思ったよ
今回のコクーンは変形舞台。舞台が劇場の中心にあって前後を座席が挟む形...と事前に聞いていてどんなかなーと思っていたら、通常の舞台の後ろに特設座席を設けているのだ。そして私はそちらがわの座席。通常楽屋に行く通路を通って座席に座るのってヘンな感じ。おまけに対面の座席が見えるのさ。舞台の形は菱形でプチプチシートに覆われている。舞台セットは椅子とポール(ここに囲まれた空間が部屋になる。ポールは扉にみたてられる)のみ。椅子は家具になったりバリケードになったり盾になったり。とてもシンプルな舞台セット。
袖はなく舞台下に椅子が並び、出番のない役者さんはそこに座り、効果音(ドアをたたく音など)も役者さん自身がつけるのだ!こりゃあ昨年末に観た12人の優しい日本人と同じで、役者さんは2時間強でずっぱりで大変だなあと思ったら、厳密に言えば袖はあり、衣装替えなどで短時間ハケることはあったのでした。
原作と贋作のメイン人物対比としては、青年ラスコーリニコフ->三条英(松たか子)、判事ポルフィーリイ->都司之助(段田安則)、娼婦ソーニャ+親友ラズミーヒン->才谷梅太郎(古田新太)、謎の男スヴィドリガイロフ+ヤな金持ちルージン->溜水石右衛門(宇梶剛士)
「罪と罰」の舞台を幕末の日本に置き換え、さらにそこに「ええじゃないか」+「竜馬暗殺」を加え、全体としてのトーンは東大安保闘争(樺美智子事件)。だからかな、なんだか昨年観た蜷川さんの「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」を喚起しちゃったよ。段田さんでてるしね。パンフで語られる東大在学中に学生食堂で芝居のビラ配りをしていた野田さんの目の前で起こった内ゲバ事件。芝居のビラとアジビラ 、内容は違えどともにビラ配りをしていた同級生がいきなり仲間に殴り殺されるという事件は野田さんの心に強烈な印象を残した - とある。
ユートピアを目指し団結した仲間達。理想という絆で固く結びついていたはずなのに、時とともにそれが綻び始め次第に求心力を失っていく。残された仲間達はなんとか団結を守ろうと強い排他性を持ちはじめ、外を攻撃し-さらに矛先は内に向かう - カルトのフォーマットみたいな学生運動の狂気と挫折は時を経てなお、あの頃芝居をはじめたひとたちの心に影を落としているんだなあと思ったよ。
(以下どんどん続きます...まとまんないよう)
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