« 振り向けば滝がある | トップページ | 折口信夫「初稿・死者の書」諸般の事情によりまだ途中 »

2004.06.29

如何に少女はコンピュータに萌えたのか 黎明篇

さて、さきの日記で父の薫陶宜しく活字中毒となった旨を述べたのであるが、一人娘だけあって受けた影響はそれだけにとどまらなかった。

私が育ったのは東京下町。総武線沿線のベットタウン、いわゆるありがちな新興住宅地だ。しかしその地の利は素晴らしかった。

まずひとつ。それは御茶ノ水、つまり書店街が沿線にあったことだ。これは活字中毒には大きな利点だ。その後郊外で生活するようになり、あらためて品揃えの豊富な本屋街が至近にある環境で育ったことの僥倖を感じた。書店における本の品揃えの豊富さは文化のバロメーターだ。地方都市のチェーン店のハコばかり広くて中身の品揃えの貧しく均一なことったらないよ。

閑話休題。

もひとつの利点。それは御茶ノ水のひとつ手前に秋葉原があるということだった。いまの秋葉原は、さながらアジアの一大オタクカルチャーマーケットと化した感があるが、むかしはもっともっと戦後の闇市っぽい泥臭い趣があった。メインストリートには大型の家電店が軒をならべ、裏通りにはアヤシゲなジャンク、電気部品などを売る店が軒を連ねていたのである(いまも面影は残ってるよね)

父の趣味のひとつに家電の修繕があった。昔は今ほど電化製品がブラックボックスではなかったのであろう、器用にハンダごてを使い、調子の悪い冷蔵庫や洗濯機はいうにおよばず、ステレオやラジオなどを修繕していたのである。一度ならずテレビを開けていたのをみた記憶があるが、思うにこれはたいへん危険なことをしていたのではないか。よく感電しなかったものだ(真空管を見た記憶があるんだけどなあ..)

そして父は週末よく幼少の私をつれて、秋葉原に部品調達にでかけていたのであった。父が部品を探す間、私も迷宮のような部品屋やジャンク屋の店内でリレー、スイッチ、コイルその他よくわからない(いまもわけわかりません..;-;)さまざまな部品の醸し出すキッチュでサイバーな雰囲気に浸っていたのであった。

そして私が父に連れられて秋葉原に出入りしていた昭和50年代は日本のパソコン黎明期であった。

ラジオ会館 - 通称ラジカン - をご存知だろうか?総武線秋葉原駅電気街口をおりると目の前にそびえる電子の殿堂(っつーか魔窟)。父のテリトリーにも当然入っていた(ラジオデパートの方がもっとはいっていたんだけどね)

そして、ラジカンこそが日本のマイコンショップの草分けNEC「ビットイン」が開かれた場所であった。

この項続きます。えっと結局コドモの私にはTK-80は高くて買えなくて、自分のパソコンを持ったのはもっとずっと後の話でPC-6001だったりするんだけど、その前にPC-1211でBasic覚えて、Appleの世界に移って、ATマシン手に入れて、DOS/Vで感激して、ダイナブックを衝動買いして、Macと訣別してとかありますが、いずれも話が長いんでまたあとで。

|

« 振り向けば滝がある | トップページ | 折口信夫「初稿・死者の書」諸般の事情によりまだ途中 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 如何に少女はコンピュータに萌えたのか 黎明篇:

« 振り向けば滝がある | トップページ | 折口信夫「初稿・死者の書」諸般の事情によりまだ途中 »