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Son client

若いながらたいそう腕のよい調律師の彼には、プロフェッショナルの顧客が多くついていた。いわゆる名の知られた芸術家たち。ただし彼らは払いも良いがその分口もだす。気難しくかつ気紛れな彼らの注文は厳しいものであったが、温厚で職人肌の彼は良く応え、さらにその評判をあげて上客を増やしていった。

古い付き合いのピアニストから紹介された彼の最も新しい顧客は、指揮者でありピアニストでもある日本人青年。西欧人からみれば学生のように見える彼は、実際に若く、しかもその若さで歴史あるオーケストラの常任指揮者となり、みるみるうちに頭角を現した - いわゆる天才鬼才と呼ばれる類の怪物だ。

しかし、普段の彼はそんなポテンシャルを感じさせないシャイで気さくな青年だ。年が近い(といっても10才近くは離れているが)彼らは、すぐに意気投合し、調律師と顧客というよりむしろ気の合う友人同士のような感覚で、忌憚無い応酬を交わしながら調律を行うのが常となっていた。

ある日 - いつものように調律に呼ばれた彼は、青年から唐突な転居の話を聞いた。駆け出しとはいえプロフェッショナルな彼が学生専用のアパルトマンに居を構えているのは少し異質な感じがしていたので、その転居には得心がいったが、ピアノを置いていくことにはどうにも納得がいかなかった。彼のピアノは上質 - 数十万ユーロの価値のあるBechsteinのアンティークなセミコンであった。青年は日本の裕福な一族の出自でそのアパルトマンもピアノも一族の持ち物と知ってはいたが、だからといって芸術品のようなピアノを簡単に手放すような振る舞いは彼の性格にそぐわない気がしたからだ。

では、引越し先のピアノはどうするのかと尋ねた矢先に、部屋の入り口でものの落ちる音がした。二人で振り返ると、そこには青ざめた顔の少女が立ち竦んでいた。どうやら彼の恋人らしいその少女は引越しを知らなかったためにショックを受けた様子で隣の部屋に駆け込み、ひどくうろたえた彼も続いてそちらの部屋に入った。彼らの姿は調律師の視界から消えたが、ドアは半開きになっていたので、会話は筒抜けだった - 日本語だったため意味はわからなかったが。

彼女が涙ながらに彼の不実を詰り、彼はせつせつと言い募っているようだ。おそらく彼らの頭から調律師の存在など吹き飛んでいることだろう。 - やれやれ、とんだ愁嘆場に行き合わせたものだ、とため息をついた瞬間、彼は自分がひどく気まずい状況におかれていることに気がついた。

何しろこの部屋は続き部屋で、恋人同士のいる寝室(!)を通らなければ、彼は帰ることすらできないのだ。やがて隣の部屋は静かにはなったが、濃密な人の気配は依然そこにあり、このままではさらに厄介な状況になってしまうことは容易に想像ができた。

愁嘆場はともかく、房事まで覗かれるのはシャイな日本人には耐え難いことだろう。青年はこれからも是非長く付き合っていきたい上客だが、気まずさゆえに疎遠になってしまうかもしれない - 意を決して彼はピアノの鍵盤に手を置いた。

結果として、彼は上客を失わずに済んだし、さらに結構なことに、青年の恋人である少女に託されたBechsteinの調律もまかされるようになった。彼女のピアノを始めて聞いたときの衝撃といったら!世の中は広い。若い学生のカップルにしか見えない二人はともに怪物的な才能を持つマエストロとピアニストであったのだ。

その後、彼らは揃ってパリから離れるまで、長い間、彼の上客であり続けた。

Fin

2007.7.3

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